

抗がん剤曝露とは、抗悪性腫瘍薬やその他のハザーダス・ドラッグ(HD)が、医療従事者の皮膚、眼、粘膜、気道などに付着・侵入すること、あるいは衣服、作業台、床、医療機器などを汚染することです。調製、運搬、投与、投与ラインの抜去、排泄物・体液の処理、廃棄物の取り扱い、破損バイアルや輸液バッグの処理など、曝露機会は薬剤部だけに限られません。
抗がん剤の中には、細胞毒性、発がん性、変異原性、生殖毒性、臓器毒性などを持つものがあります。個々の薬剤の危険性、濃度、曝露量、接触時間、曝露頻度、剤形、曝露経路によって影響は異なります。そのため、「少量だった」「症状がない」「手袋をしていた」だけで問題がないと判断せず、曝露後は部署の規程に基づいて対応することが重要です。NIOSHも、薬剤の剤形、曝露経路、頻度・時間・程度、作業方法、工学的対策や個人防護具の有無を踏まえ、施設ごとにリスク評価を行う必要があるとしています。
参考)Restored CDC
実務上は、抗がん剤そのものだけでなく、投与後の患者の尿、便、嘔吐物、血液、胸水、腹水なども管理対象になります。患者に投与された薬剤・代謝物が体液や排泄物に含まれる可能性があるためです。日本臨床腫瘍薬学会は、抗がん剤投与終了後少なくとも48時間以内の排泄物・体液に触れる場合は手袋を用いるよう案内しています。
参考)「抗がん剤」Q&A
なお、抗がん剤曝露は、患者に起きる「血管外漏出」とは別の概念です。血管外漏出は患者の血管外組織に薬剤が漏れる有害事象であり、抗がん剤曝露は職員や周囲の人、環境への接触・汚染を指します。両者が同時に発生することもあるため、患者対応と職員の安全確保を並行して進める必要があります。
抗がん剤が身体に付着した場合は、最初に「作業を続けない」「汚染源から離れる」「汚染を広げない」を徹底します。患者の安全確保が必要な状況でも、可能であれば近くの職員へ応援を求め、曝露した職員自身は洗浄を優先します。汚染された手袋、ガウン、マスク、衣類などは、脱ぐ際に皮膚や顔面へ汚染を移さないよう注意し、施設規程に定められたHD廃棄物として処理します。
皮膚に付着した場合は、直ちに十分な流水と石けんで洗浄します。強くこすって皮膚を傷つけること、溶剤やアルコールで拭き取ることは、皮膚刺激や吸収増加につながるおそれがあるため、自己流で行いません。眼に入った場合は、コンタクトレンズを使用していれば可能な範囲で外し、洗眼設備または十分な流水で速やかに洗眼します。洗眼後は症状の有無にかかわらず、医師の評価を受けることが基本です。抗がん薬が皮膚・眼に付着したときは速やかに水で洗い流し、眼の曝露後は診察を受けるべきとする実務資料もあります。
参考)3-5.抗がん薬がこぼれた時・曝露された時の対処
粉末やエアロゾルを吸入した可能性があるときは、発生源から離れ、新鮮な空気のある場所へ移動します。うがいや鼻腔の洗浄を行う運用を採る施設もありますが、行う処置は薬剤の安全性情報、院内マニュアル、産業保健部門または救急対応部門の指示を優先してください。咳、喘鳴、息苦しさ、眼・鼻・咽頭の刺激、めまい、悪心などがあれば、速やかに診察・評価を受けます。標準的なサージカルマスクは、粉末やエアロゾルへの曝露を防ぐ呼吸用保護具の代わりにはなりません。
参考)https://www.ons.org/sites/default/files/2018-06/ONS_Safe_Handling_Toolkit_0.pdf
| 曝露場面 | 直後に行う対応 | その後の対応 |
|---|---|---|
| 皮膚への付着 | 汚染手袋・衣類を外し、流水と石けんで十分に洗浄する | 発赤、痛み、かゆみなどを観察し、上司へ報告して必要時に受診する |
| 眼への飛入 | 直ちに洗眼器または流水で洗眼する | 洗眼後も自己判断で終了せず、医師または救急部門の評価を受ける |
| 粘膜への付着 | 口腔・鼻腔などを水で洗浄し、曝露源から離れる | 薬剤名と状況を伝え、院内の曝露対応手順に従って受診・記録する |
| 吸入が疑われる場合 | 発生場所から退出し、新鮮な空気のある場所へ移動する | 呼吸器症状の確認、医療評価、事故報告を行う |
| 針刺し・切創を伴う場合 | 創部を流水で洗浄し、無理に強く絞り出さない | 針刺し事故手順とHD曝露手順の双方に沿って緊急報告・受診する |
曝露後の洗浄時間、受診先、観察期間、妊娠中・授乳中・妊娠を希望する職員への配慮は、使用薬剤と院内規程により異なります。したがって、この記事の一般論で完結させず、自施設の抗がん薬安全取扱い手順書、SDS、安全衛生部門の指示を確認することが必要です。
CDC/NIOSH:医療現場におけるハザーダス・ドラッグ曝露対策
輸液バッグの破損、接続外れ、ラインからの漏出、バイアル破損、錠剤・カプセルの破砕、患者の嘔吐物や排泄物による汚染などが起きた場合は、まず周囲への拡散を防ぎます。近くの職員・患者・面会者を不用意に近づけず、必要に応じて立入制限を行い、床面であれば滑りや転倒にも注意します。汚染区域をまたいで移動すると、靴底や衣類を介して汚染範囲を広げることがあります。
処理は、スピルキットの使用方法と個人防護具の着脱に習熟した職員が実施します。一般に、適切な化学療法用手袋の二重装着、耐透過性ガウン、必要に応じた眼・顔面保護具、飛散や粉塵発生が懸念される場合の呼吸用保護具を用います。大規模な漏出、粉末の飛散、換気への影響が疑われる場合は、現場だけで抱え込まず、所属長、薬剤部、安全衛生部門、施設管理部門などへ直ちに連絡し、院内の緊急対応計画へ移行します。
拭き取りでは、汚染を広げないよう外側から中心へ向かって吸収材で回収し、飛散させないよう静かに扱います。ガラス片がある場合は素手で触れず、専用の器具で耐穿刺性容器へ入れます。処理後に使用した吸収材、手袋、ガウン、破損物、清掃資材などは、通常の一般廃棄物や感染性廃棄物と安易に混在させず、施設のHD廃棄ルールに従います。OSHAは、偶発的な漏出や破損は、適切に保護され、所定の手順の訓練を受けた者が直ちに処理すべきとしています。
ただし、除染に用いる洗浄剤、拭き取り回数、消毒剤・不活化剤の使用可否は、薬剤の化学的性質や設備材質、院内手順によって異なります。「消毒すればよい」「アルコールで拭けばよい」と一律に扱うことは適切ではありません。薬剤ごとのSDS、製品情報、施設の手順書を優先してください。
抗がん剤曝露は、目に見える皮膚症状がない場合でも、必ず上司または責任者へ報告します。報告は個人の責任追及を目的とするものではなく、健康影響の評価、適切なフォロー、再発防止のための安全管理です。自己判断で洗浄のみを行い、記録を残さないと、後から症状が出た場合に曝露状況を確認できず、職場全体の改善機会も失われます。
報告書や記録には、少なくとも発生日時、場所、関係者、薬剤名、濃度、剤形、推定量、曝露経路、接触時間、使用していた個人防護具、直後の洗浄・除染内容、症状の有無、受診先、患者への影響、発生原因を記載します。薬剤名が不明な場合は、処方内容、ラベル、投与記録、薬剤部への照会により確認します。安全性データシート(SDS)には、危険有害性、応急処置、保護具、漏出時の措置などの情報が掲載されているため、曝露評価の重要な資料になります。
皮膚・眼・粘膜への直接曝露、呼吸器症状を伴う吸入、広範囲の付着、針刺し・切創、妊娠中または妊娠可能性がある職員の曝露などでは、早期に医師、産業医、救急部門などの評価を受けることが重要です。受診時には「抗がん剤に曝露した」という情報だけでなく、正確な薬剤名、投与量・濃度、曝露経路、発生からの経過時間、洗浄などの実施内容を伝えます。
施設は、事故報告を集計して終えるのではなく、原因分析につなげます。例えば、接続部外れが続くなら閉鎖式薬物移送システムや接続手技、物品選定を見直します。PPE未着用が起きたなら、単なる注意喚起ではなく、物品の配置、サイズの不足、繁忙時の導線、教育頻度、手順の実行可能性を検討します。個人の注意力だけに依存しない仕組みへ改善することが、職業性曝露対策の中心です。
抗がん剤曝露への対応で最も重要なのは、事故が起きてからの処置だけではありません。調製、搬送、保管、投与、投与後のライン処理、患者の排泄物・体液への対応、清掃、洗濯、廃棄という一連の工程を可視化し、どこで曝露が起こり得るかを事前に評価することが必要です。看護師、薬剤師、医師、看護補助者、清掃担当者、検査部門、廃棄物委託業者など、抗がん剤または汚染物に関わる全職種を対象に考えます。
個人防護具は最後の防壁であり、それだけに依存する対策では不十分です。閉鎖式薬物移送システム、適切な安全キャビネットやアイソレーター、陰圧環境、漏れにくい接続部品、適正な容器と搬送方法などの工学的対策を組み合わせます。さらに、標準作業手順、教育、監査、発生事例の共有といった管理的対策を重ねることで、曝露リスクを下げます。
医療従事者が覚えておくべき実践原則は明確です。抗がん剤を曝露したら、まず洗浄・隔離・拡散防止を行い、次に院内手順に沿って報告・受診・記録へ進みます。そして、個人の失敗として終わらせず、薬剤、設備、物品配置、手順、教育を見直して再発防止につなげます。現場で迷わないために、自施設の曝露対応マニュアル、スピルキットの設置場所、夜間を含む連絡先を、勤務開始時から確認しておくことが安全な医療提供につながります。
OSHA:ハザーダス・ドラッグの職業性曝露を管理するための推奨事項