

「授乳中発熱」は診断名ではなく、授乳期に起こった発熱という症状を表す言葉です。授乳中という情報から乳腺炎を考えることは重要ですが、それだけで原因を確定してはいけません。特に産後早期では、乳房に加えて子宮、尿路、帝王切開創、会陰創などを確認し、感染源を絞り込む必要があります。産褥子宮内膜炎では発熱、下腹部痛、子宮の圧痛などがみられ、尿路感染症や創感染症も鑑別に挙がります。
参考)産褥子宮内膜炎 - 18. 婦人科および産科 - MSDマニ…
乳腺炎を疑う所見は、乳房の局所的な発赤、疼痛、腫脹、硬結と、発熱や悪寒などの全身症状です。ただし、発熱がある乳腺炎をすべて細菌感染と判断することは適切ではありません。Academy of Breastfeeding Medicine(ABM)のClinical Protocol #36では、乳管の狭窄、炎症性乳腺炎、細菌性乳腺炎、膿瘍などを連続した病態として整理しています。炎症性乳腺炎でも、感染を伴わずに発熱、悪寒、頻脈などが生じることがあります。
参考)https://www.bfmed.org/assets/ABM%20Protocol%20%2336.pdf
従来の「母乳が詰まったので強く押し出す」という説明だけでは、病態を十分に捉えられません。ABMは、乳管周囲の炎症や浮腫による内腔の狭窄を重視しています。乳房を繰り返し空にしようとする授乳や搾乳は、母乳産生を過剰に刺激して炎症を悪化させる可能性があります。医療従事者は、しこりの有無だけでなく、授乳・搾乳の頻度、搾乳量、吸引圧、最近のケア方法まで確認することが重要です。
一方、産後の乳房緊満は乳腺炎と一部の所見が似ています。典型的には産後3~5日頃に両側の乳房の張り、硬さ、痛みとして現れますが、時期には個人差があります。また、産後のホルモン変化による発汗やほてりは、本人が「熱がある」と感じる原因になります。主観的な熱感と実測した発熱を区別しつつ、実際に発熱を認める場合は「母乳が出始めたから」と安易に説明せず、全身状態と局所所見を評価します。
ABM Clinical Protocol #36:乳腺炎スペクトラムの評価と管理
授乳中の発熱に対応する際は、原因の鑑別に先立って緊急性を評価します。米国疾病予防管理センター(CDC)は、妊娠中から出産後1年までの注意すべき母体の警告徴候として、38℃以上の発熱を挙げ、直ちに医療を受けるよう案内しています。これは「38℃以上なら必ず敗血症」という意味ではなく、見逃せない合併症の可能性を評価するための警告基準です。日本の診療でも、産後の38℃以上の発熱を安易な経過観察だけで済ませず、速やかな医療相談・評価につなげることが重要です。
参考)Urgent Maternal Warning Signs …
問診では、分娩日と産後日数、分娩方法、発熱の開始時刻、最高体温、解熱薬の服用時刻を確認します。あわせて乳房痛、下腹部痛、悪露の臭い、排尿症状、創部の変化を聞き取ります。診察では乳房だけに注目せず、全身状態と腹部・創部などの所見を組み合わせて判断します。産褥期の発熱や感染徴候には速やかな評価と治療が必要であり、電話相談でも産後であることを明確に把握する必要があります。
| 項目 | 基準・内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 発熱 | 産後の38℃以上は速やかな医療評価につなげる。 | 体温だけで重症度を決めず、随伴症状を確認する。 |
| 全身の警告徴候 | 呼吸困難、胸痛、失神、意識の異常などがあれば救急評価を優先する。 | 発熱の原因を自宅で見極めようとして対応を遅らせない。 |
| 乳房所見 | 発赤、疼痛、腫脹、硬結、局所的な腫瘤を確認する。 | 乳腺炎の病態や膿瘍の可能性を評価する。 |
| 子宮・悪露 | 下腹部痛、子宮の圧痛、悪臭のある悪露や分泌物を確認する。 | 乳房症状があっても産褥子宮内膜炎を除外できない。 |
| 尿路・創部 | 排尿痛、側腹部痛、創部の発赤・硬結・膿性分泌物を確認する。 | 尿路感染症、帝王切開創感染、会陰感染などを考える。 |
| 治療後の経過 | 乳腺炎の第一選択抗菌薬で48時間後も改善しなければ、乳汁培養などを検討する。 | 悪化時は48時間を待たずに再評価する。 |
ABMは、乳腺炎で発熱や頻脈などの全身症状が24時間を超えて持続する場合、医療従事者による評価を勧めています。ただし、この「24時間」は受診を待つためのルールではありません。産後の38℃以上の発熱や重症徴候がある場合には早期評価を優先し、乳腺炎として診療した後も、症状が持続・悪化する場合は方針を見直します。
乳腺炎に伴う発熱では、体温が高いという理由だけで一律に断乳したり、搾乳した母乳を廃棄したりする必要はありません。ABMは、細菌性乳腺炎そのものは授乳の禁忌ではなく、患側の乳房からの母乳も乳児が摂取できるとしています。ただし、この判断をすべての発熱疾患にそのまま広げることはできません。母体の診断、治療薬、乳児の状態に応じて授乳方法を個別に検討します。
乳房ケアの基本は、乳児の需要に応じた生理的な授乳を支援し、「乳房を完全に空にする」ことを目標にしないことです。余分な搾乳を繰り返すと、母乳産生と乳房の浮腫・炎症が悪循環に入る可能性があります。母子分離や乳児の哺乳困難などで搾乳が必要な場合は、必要量と母体の苦痛に合わせて調整し、授乳に相当する頻度・量を目安にします。
例えば、発熱と右乳房の発赤がある母親が、「詰まりを取るため」に授乳後も長時間搾乳し、硬い部分を強く揉んでいる場合を考えます。この状況では、乳腺炎の重症度や細菌感染の可能性を評価するだけでなく、過剰な刺激を減らし、冷却や疼痛管理、授乳方法の調整を行います。単に「もっと母乳を出してください」と伝えることは、病態を悪化させるおそれがあります。
授乳継続の支援は、母親に無理をさせることとは異なります。ABMは、休息の確保や心理社会的な支援も乳腺炎管理の一部としています。痛みや発熱が強いときは、本人が希望する授乳方法を確認し、家族などによる育児・家事の支援を調整します。授乳できたかどうかだけでなく、母体が休めるか、必要な治療を受けられるかという視点が重要です。
授乳中の解熱・鎮痛薬では、アセトアミノフェンとイブプロフェンが選択肢になります。国立成育医療研究センターの「授乳中に安全に使用できると考えられる薬」の一覧には、両成分が掲載されています。ただし、掲載されていることは、どのような量や条件でも無条件に使用できるという意味ではありません。薬の使用・中止は自己判断ではなく、医師と相談して決めることが勧められています。
参考)授乳中の薬の使用について
薬剤選択では、母乳への移行だけでなく、母体の既往歴、併用薬、投与量、投与期間も確認します。イブプロフェンは、消化性潰瘍の既往や一部の喘息患者などで適さない場合があります。市販薬を使用している場合は製品名だけでなく成分を確認し、アセトアミノフェンを含む複数の製品の重複服用を避けます。海外の資料に記載された高用量を、日本の患者への一律の服用指示として転用せず、国内の添付文書や処方内容に従って調整します。
参考)Pain Relief (Analgesics) and B…
解熱薬は苦痛を軽減するための対症療法であり、原因疾患を治療する薬ではありません。服用後に体温が下がっても、子宮感染や乳房膿瘍などが解消したとは判断できません。発熱の経過を把握するときは、服薬前の体温と服薬時刻を記録し、腹痛、乳房の発赤、腫瘤などの変化も追跡します。特に乳房膿瘍では、感染が局所に封じ込められる過程で発熱が消失する場合があるため、解熱だけを改善指標にしないことが重要です。
抗菌薬は、発熱があるという理由だけで乳腺炎の全例に投与するものではありません。炎症性乳腺炎と細菌性乳腺炎を臨床経過や局所所見から評価し、細菌性乳腺炎が疑われる場合に使用します。ABMではセファレキシンなどが選択肢として挙げられていますが、実際の処方は国内での使用状況、アレルギー、地域の耐性菌情報、培養結果などを踏まえて決定します。残っている抗菌薬の自己使用は勧めません。
乳児側の条件も確認が必要です。ABMは、抗菌薬の一つであるトリメトプリム・スルファメトキサゾールについて、乳児にG6PD欠損症がある場合は推奨せず、早産児や高ビリルビン血症の乳児、特に生後30日未満では注意が必要としています。薬剤の可否を「授乳中」という一条件だけで判断せず、出生時の在胎週数、日齢、黄疸や基礎疾患などを含めて確認します。
国立成育医療研究センター:授乳中に安全に使用できると考えられる薬
初期対応後も発熱や乳房症状が改善しない場合は、診断と治療を再評価します。細菌性乳腺炎に対する第一選択抗菌薬で48時間後も改善がなければ、ABMは乳汁培養を検討し、耐性菌や通常と異なる病原体を評価することを勧めています。再発例や、免疫機能が低下した乳児に母乳を与えている場合などでは、より早い段階で培養を検討することもあります。病状が悪化している場合は、この時間の目安を待たずに対応します。
局所の腫瘤が増大する、発赤や硬結が続く、膿瘍を疑う所見がある場合には乳房超音波検査を検討します。乳房膿瘍は感染した液体貯留であり、通常は感染源制御のための排膿が必要です。抗菌薬や解熱薬だけで対応を続けず、乳腺外科など適切な診療科につなげます。ABMでは、穿刺吸引やドレーン留置後も患側からの授乳を継続する方針が示されていますが、処置後の授乳方法は担当医療者が創部や疼痛の状態を確認して調整します。
同じ場所で乳腺炎を繰り返す場合は、毎回同じ抗菌薬を処方するだけでは不十分です。ABMは、同一部位の反復例では画像評価を行い、背景にある腫瘤や肉芽腫性乳腺炎などの異常を除外することを勧めています。再発予防としては、過剰な搾乳や強いマッサージなどの誘因を見直し、前回の炎症が十分に解消したかを確認します。特定の食品を原因と決めつけることについては、ABMは特定の食物が乳腺炎を引き起こすという根拠はないとしています。
乳房所見だけでは発熱を説明できないときは、産褥子宮内膜炎、尿路感染症、創感染症などに立ち戻ります。下腹部痛や悪臭のある悪露があれば子宮感染を、排尿痛や側腹部痛があれば尿路感染を、創部の発赤や膿性分泌物があれば創感染を評価します。診断基準として一定期間の発熱が記載されていても、それを満たすまで受診や治療を待つという意味ではありません。
帰宅後の説明では、「様子を見てください」だけで終わらず、どの症状が出たら、いつ、どこへ連絡するかを具体化します。呼吸困難、胸痛、失神、意識の異常、強い腹痛などがあれば救急評価を優先し、発熱の持続や乳房所見の悪化があれば予定を待たずに再相談するよう伝えます。受診時には産後であること、分娩日、使用薬を伝えてもらいます。授乳中発熱の診療では、母体の安全を確保しながら、不必要な断乳や過剰な乳房刺激を避ける支援が求められます。