脳に痛みを忘れさせるとは?慢性痛診療の科学と実践

脳に痛みを忘れさせるとは?慢性痛診療の科学と実践

「脳に痛みを忘れさせる」という表現を、慢性痛の仕組み、認知行動療法、運動療法、痛み再処理療法の研究から解説します。痛みを否定せず、原因疾患の評価と生活機能の回復を両立するには、どのような支援が必要でしょうか?

脳に痛みを忘れさせるための基礎知識と核心ガイド

慢性痛と脳の関係を診療に生かす視点
忘却ではなく痛みの捉え直し

痛みの記憶を消すのではなく、痛みに対する恐怖や解釈を見直し、生活への影響を減らす支援です。

治療効果と適用範囲を区別

心理療法や運動療法には研究の裏づけがありますが、すべての痛みに同じ効果を期待できません。

原因評価と生活機能を重視

原因疾患の評価を続けながら、痛みの強さだけでなく、睡眠や活動、社会参加の変化も確認します。


「脳に痛みを忘れさせる」は記憶を消す治療ではない



「脳に痛みを忘れ させる」という検索ワードは、長引く痛みを軽くしたいという患者の切実な希望を表しています。しかし、医療従事者がこの表現を使う際には、痛みの記憶を消去する治療が確立しているかのような説明を避ける必要があります。慢性痛診療で検討されるのは、痛みの原因や危険性に対する捉え方、恐怖、回避行動などに働きかけ、痛みと生活への影響を軽減するアプローチです。痛み再処理療法の臨床試験も、記憶の消去ではなく、痛みに対する信念や脅威の評価を変える介入として実施されています。


参考)pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
診療上の核心は、痛みの再評価を患者の訴えの否定と混同しないことです。「検査が正常だから痛くないはず」「脳の問題なので気にしなければよい」といった説明は、患者の体験を軽視する方向に働きます。英国のNICEガイドラインも、正常または陰性の検査結果を伝える際に、慢性痛の経験を否定しないよう配慮することを推奨しています。画像検査で痛みを十分に説明できない場合でも、苦痛と機能障害への支援は必要です。


参考)Recommendations
患者説明では、「痛みは実際に起きています。原因となる病気を確認するとともに、痛みに対する不安や生活への影響も一緒に扱っていきます」と伝える方法が考えられます。これは、痛みを身体か心のどちらかに分類する説明ではなく、両方を含む診療計画を共有するための言い換えです。NICEが重視する協働的な関係、患者の理解や期待の確認、利益と不確実性の説明にも沿った進め方です。



慢性痛の分類と中枢性感作を整理する

NICEでは、慢性痛を「3か月を超えて持続または再発する痛み」としています。そのうち慢性一次性疼痛は、痛みやその影響を十分に説明する基礎疾患がない、または観察される損傷や疾患に比べて痛みや生活への影響が大きい状態です。一方、慢性二次性疼痛では、基礎疾患が痛みやその影響を十分に説明します。両者は併存し得るため、「原因疾患があるから心理的支援は不要」「画像所見が乏しいからすべて一次性疼痛」という二分法は適切ではありません。


これとは別に、痛みの機序を表す言葉として、侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛、痛覚変調性疼痛があります。慢性一次性疼痛は臨床的な分類であり、痛覚変調性疼痛は機序を記述する用語です。さらに中枢性感作は、痛覚変調性疼痛に関わり得る過程の一つですが、同義ではありません。これらを区別することで、「脳が痛みを覚えた」という比喩だけで病態を説明し切る誤りを避けられます。


参考)Types of pain: nociceptive, ne…








項目 基準・内容 備考
慢性痛 3か月を超えて持続または再発する痛み。 慢性一次性疼痛と慢性二次性疼痛を含みます。
慢性一次性疼痛 基礎疾患が痛みやその影響を十分に説明しない状態。 慢性二次性疼痛と併存することがあります。
慢性二次性疼痛 基礎疾患が痛みやその影響を十分に説明する状態。 原因疾患に対応する診療指針を踏まえて管理します。
侵害受容性疼痛 組織損傷やその危険に伴う侵害受容器の活動に関連する痛み。 ほかの機序が併存する可能性も考慮します。
神経障害性疼痛 体性感覚神経系の病変または疾患に起因する痛み。 痛覚変調性疼痛との機序の違いを区別します。
痛覚変調性疼痛 痛みを説明する明確な組織損傷や体性感覚神経系の病変がない状況で、変化した侵害受容に由来する痛み。 機序を表す用語であり、それだけで個別の診断を確定するものではありません。
中枢性感作 中枢神経系での神経信号の増幅に関わる概念。 症状や質問票だけで、その存在を個人レベルで確定することはできません。

臨床では、痛みの広がりや感覚の変化が中枢性感作と整合的であっても、それを直接証明したと断定しない姿勢が重要です。また、痛覚変調性疼痛という説明は、痛みに生物学的な基盤がないことを意味しません。侵害受容性や神経障害性の過程が存在しないことまで保証する用語でもありません。患者の病歴、診察所見、必要な検査を統合し、複数の機序が関与する可能性を保った評価が求められます。


欧州疼痛連盟による痛みの機序と分類の解説


認知行動療法・ACT・運動療法をどう組み合わせるか

「脳に痛みを忘れさせる方法」を求められた際、単に注意をそらす方法を紹介するだけでは、慢性痛の包括的な支援になりません。NICEは、16歳以上の慢性一次性疼痛に対して、患者のニーズ、希望、能力を考慮した監督下の集団運動プログラムを提供することを推奨しています。また、適切な訓練を受けた医療従事者による、痛みを対象とした認知行動療法(CBT)またはアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)を検討するよう勧めています。


  • 目標を共有する:痛みの強さだけでなく、仕事、家事、外出、家族との時間など、患者が優先したい生活上の目標を確認します。

  • 身体活動を個別化する:能力や希望を考慮し、継続できる運動や活動を選びます。特定の運動種目だけが優れていると決めつけないことが大切です。

  • 心理療法の目的を説明する:CBTやACTを、身体疾患の評価に代わるものではなく、痛みに伴う生活上の困難を扱う治療として共有します。

  • 睡眠と生活背景を評価する:睡眠障害、心理的な健康、仕事や住居、収入、対人関係など、痛みと相互に影響する要素を確認します。

  • 効果を多面的に判断する:痛みが残っていても、生活の質や活動への参加が改善する可能性を患者と共有します。

研究の評価でも、疼痛強度だけに注目しないことが重要です。NICEの根拠説明では、運動は慢性一次性疼痛の痛みと生活の質を改善した研究があり、ACTは生活の質や睡眠、痛み、心理的苦痛の改善と関連していました。一方、CBTの推奨に関するエビデンスの質には限界があり、ACTとCBTのどちらかを一律に優先する根拠も十分ではありません。治療法の名称より、患者の希望、提供者の訓練、利用可能な資源を踏まえた選択が重要です。


参考)Rationale and impact
例えば、慢性一次性疼痛と評価された患者が「買い物に行けないこと」を最も困っている場合、診療計画の目標を「痛みを完全にゼロにする」だけに限定せず、「本人が望む買い物への参加を増やす」と設定できます。そのうえで、運動プログラムや心理療法を組み合わせ、活動状況と痛みの変化を確認します。これは個別の運動処方ではなく、NICEの患者中心の目標設定を診療場面に置き換えた例です。


NICE NG193:慢性痛の評価と慢性一次性疼痛の管理


痛み再処理療法の研究結果と限界

痛み再処理療法(Pain Reprocessing Therapy:PRT)は、痛みの原因や危険性についての信念を変えることを目指す心理的治療です。Asharらによるランダム化比較試験は、2021年にオンライン公表され、2022年のJAMA Psychiatryに掲載されました。対象は慢性腰痛の成人151人で、PRT、非盲検プラセボ、通常診療を比較しています。PRT群では、医師による遠隔診療1回と、4週間にわたる心理治療8回が行われました。


介入直後に、0~10の疼痛強度で0または1、すなわち「痛みがない、またはほぼない」と回答した割合は、PRT群で50人中33人の66%、プラセボ群で51人中10人の20%、通常診療群で50人中5人の10%でした。平均疼痛スコアは、介入直後にそれぞれ1.18、2.84、3.13で、1年後にも1.51、2.79、3.00という群間差が認められました。特定の慢性腰痛患者に対して有望な結果ですが、「すべての慢性痛患者の66%が治る」という意味ではありません。


この試験の参加者は、平均年齢41.1歳、平均疼痛期間10.0年で、開始時の平均疼痛強度は4.10、平均機能障害スコアは100点中23.34でした。大学の研究環境で実施され、治療は複数回の専門的セッションで構成されています。重い機能障害を伴う患者、異なる疼痛疾患、一般診療で提供できる短時間の説明などへ、そのまま結果を当てはめることはできません。とりわけ原因疾患による痛みに対して、評価を省略して「危険のない脳活動」と説明する根拠にはなりません。


機能的MRIでは、誘発された腰痛に対する一部の脳領域の反応低下や、安静時の結合性の変化も報告されています。ただし、これらは研究参加者の群として観察された変化であり、「痛みの記憶が消えた」「画像で治癒を判定できる」といった解釈は研究結果を超えます。さらに、比較群では同じ回数の心理療法が提供されていないため、介入内容だけでなく、接触時間などの違いにも注意が必要です。PubMedには、対照介入の違いが解釈に与える問題を指摘した論評も掲載されています。


PRTを紹介する記事や患者説明では、有望な結果と適用範囲の両方を伝えるべきです。研究は、一次性の慢性腰痛において痛みの脅威評価を変える治療が役立つ可能性を示しましたが、家庭で「痛みは安全だ」と繰り返すだけで同じ効果が得られることを証明したわけではありません。また、論文では一部の著者と関連サービス等の利益相反が開示されており、効果の大きさとともに研究条件を確認する姿勢も必要です。


PRTとプラセボ・通常診療を比較したランダム化比較試験


安全な患者説明と診療計画への落とし込み

医療従事者向けに「脳に痛みを忘れさせる」というテーマを扱う際は、原因疾患の評価と、痛みに対する認知・行動への介入を両立させる必要があります。NICEは、慢性一次性疼痛という初期診断が時間とともに変わり得ることを認め、症状の現れ方が変化した場合は診断を再評価するよう推奨しています。痛みが一時的に増悪した際にも、診療計画を見直し、新たな症状の検査や管理を検討することが求められます。


初回評価では、痛みの原因を考えるだけでなく、痛みが日常生活に及ぼす影響、患者自身の病気への理解、将来への不安、治療に期待することを確認します。そのうえで、すでに役立っている対処法や本人の強みを把握し、取り入れられる治療を相談します。原因について十分な説明ができない場合も、不明な点を隠して「脳が原因」と断定するのではなく、現時点の評価と今後の見直し方を共有することが重要です。


薬物療法についても、慢性一次性疼痛と慢性二次性疼痛を区別します。NICEは慢性一次性疼痛に対し、利益と害を十分に話し合ったうえで、一部の抗うつ薬を検討するとしています。一方、オピオイドやガバペンチノイド、非ステロイド性抗炎症薬などの新規開始を推奨していません。これは慢性一次性疼痛に対する英国の指針であり、原因疾患に伴う痛みを含む、すべての疼痛診療に一律に適用する勧告ではありません。


すでに服薬している患者に対しては、「脳への働きかけで治せるので薬は不要」といった説明を避けます。NICEは、現在の薬の利益、有害事象、安全性を患者と一緒に見直し、継続や減量・中止の計画を共有するよう勧めています。抗うつ薬、オピオイド、ガバペンチノイド、ベンゾジアゼピン系薬の中止を検討する場合には、離脱に伴う問題についての説明も必要です。日本の診療で採用する際は、国内の承認適応や診療指針を別途確認する必要があり、英国の勧告だけで処方を決めるものではありません。


経過観察では、疼痛強度の数字に加えて、患者が選んだ活動目標、睡眠、心理的苦痛、生活の質を確認します。「痛みが残っているから治療は無効」と判断するのではなく、本人にとって意味のある変化が起きているかを話し合います。同時に、症状が悪化した場合や新たな症状が加わった場合の再評価方針も決めておくと、生活の回復を目指す支援と、病態の変化を見逃さない診療を両立しやすくなります。


患者に届けるべき説明は、「痛みを忘れれば治る」ではありません。「痛みを実際の苦痛として受け止め、原因を評価しながら、痛みに対する恐怖や生活への影響を小さくする方法を一緒に探す」という方針です。治療の利益、リスク、不確実性を共有し、痛みの消失だけに成功を限定しないことが、患者中心の慢性痛診療につながります。





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