

「前立腺癌を治療しない」という表現は、診療現場では慎重に扱う必要があります。前立腺癌は進行が比較的緩徐な症例がある一方、短期間で進行する高悪性度癌や、骨・リンパ節などへ転移して症状を生じる症例もあります。そのため、80代であることだけを根拠に、検査も通院も行わない「放置」を勧めることは適切ではありません。
実際に選択肢となるのは、主に監視療法と待機療法です。監視療法は、低リスクを中心とした限局性前立腺癌に対し、PSA検査、直腸診、MRI、生検などで癌の状態を定期的に確認し、進行を示す所見が出た場合には根治治療へ移行する戦略です。一方の待機療法は、根治目的の治療による利益が限られると考えられる患者に対して、症状が出るまで過度な介入を避け、症状出現時に緩和的な治療を行う方針です。
欧州泌尿器科学会のガイドラインでは、限局性前立腺癌に対して局所治療による利益を得るには、一般に10年以上の期待余命が必要とされます。また、併存疾患や年齢を踏まえた期待余命が10年未満で、進行時に根治治療を行う予定がない場合は、待機療法が標準的な選択肢とされています。したがって、「80代だから治療しない」ではなく、「その患者にとって根治治療の利益が治療負担を上回るか」を判断することが重要です。
参考)Treatment - EAU Guidelines on …
EAU Guidelines on Prostate Cancer:Treatment
80代の前立腺癌で治療方針を考える際は、暦年齢を一つの背景情報として扱い、癌そのものの危険度と患者側の健康状態を組み合わせて評価します。特に、PSA値だけで治療の要否を決めないことが重要です。PSAは前立腺肥大症、前立腺炎、尿閉、カテーテル操作などでも変動し得るため、推移、病理所見、画像所見、臨床病期と併せて読影・解釈します。
| 項目 | 基準・内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 臨床病期 | 前立腺内にとどまる限局癌か、局所進展・リンパ節転移・遠隔転移があるかを確認する | 転移例では症状予防や進行抑制を目的とした治療を検討する |
| 病理学的悪性度 | 生検のGrade Group、Gleasonスコア、陽性コア数、癌の占拠率を確認する | Grade Groupが高いほど進行・転移のリスクは高くなる |
| PSA関連指標 | PSA値、PSA密度、PSA倍加時間、経時的な上昇傾向を評価する | 単回測定値だけでなく、変化の速度と臨床情報を重視する |
| 画像・局所所見 | MRIでの病変、被膜外進展、精嚢浸潤、必要時の転移検索を確認する | 症例によりPSMA PETや骨シンチグラフィなどを用いる |
| 健康状態 | 併存疾患、フレイル、認知機能、歩行能力、日常生活動作、栄養状態を評価する | 80代でも自立度と全身状態には個人差が大きい |
| 期待余命と価値観 | 根治治療の利益が見込める期間と、尿失禁・排尿障害・性機能障害などの負担を比較する | 患者本人が重視する生活目標を意思決定に反映する |
特に80代では、単純な平均余命の数字だけを当てはめず、心不全、慢性腎臓病、慢性閉塞性肺疾患、脳血管障害、認知症、他癌の治療状況などを総合的に確認します。逆に、日常生活が自立し、重大な併存疾患が少なく、活動性が高い80代であれば、年齢のみを理由に根治的治療の可能性を除外すべきではありません。高齢者であっても、治療適応は健康状態と癌のリスクで個別に判断するという原則が重要です。
患者説明で混同されやすいのが、監視療法と待機療法です。いずれも診断直後に手術・放射線治療を実施しない可能性があるため、「治療しない」と一括りにされがちですが、目的と運用は異なります。医療従事者は、将来的な治癒を目指す選択なのか、生活の質を優先して症状が出た時点で対処する選択なのかを、明確に伝える必要があります。
監視療法の標準的なフォローとして、EAUガイドラインではPSAを少なくとも6か月ごと、直腸診を少なくとも年1回とし、繰り返し生検を含む定期的評価を示しています。ただし、検査間隔や再生検の要否は、年齢、フレイル、MRI所見、病理所見、患者の受診負担を含めて個別化されます。
80代の患者であっても、積極的治療または疾患制御を目的とする治療を検討すべき状況があります。代表的なのは、高リスクまたは超高リスクの限局癌、局所進行癌、リンパ節転移、遠隔転移、または症候性の進行癌です。これらでは、無治療で経過をみた場合に、尿路閉塞、血尿、疼痛、骨関連事象、腎後性腎不全、脊髄圧迫などが生じるおそれがあります。
高リスク癌では、根治的放射線治療と内分泌療法の組み合わせ、病勢に応じた全身薬物療法などが検討されます。転移性前立腺癌では、アンドロゲン除去療法を基本として、患者のPS、併存疾患、骨髄機能、心血管リスク、認知機能、通院可能性などを踏まえ、治療強度を調整します。治療目的は必ずしも「完全に治す」ことだけではなく、痛みや排尿障害を防ぎ、生活機能を維持し、癌による苦痛を減らすことにもあります。
一方、根治的前立腺全摘除術は、術後尿失禁、尿道狭窄、感染、血栓症、心肺合併症などを考慮する必要があります。放射線治療でも、頻尿、排尿痛、直腸出血、腸管症状、倦怠感などが問題となり得ます。80代の患者に治療を提案する際には、治療の理論上の利益だけでなく、治療中・治療後の生活への影響、家族の支援体制、通院距離、認知・身体機能も含めて説明します。
重要なのは、積極的治療を提案することと、過剰治療を行うことは同義ではない点です。患者の健康状態が良好で、10年以上の期待余命が見込まれ、臨床的に意義のある高リスク癌が確認される場合には、年齢だけで治療機会を失わせない配慮が必要です。反対に、治療による負担が大きく、癌以外の疾患が生命予後を主に規定する場合は、症状を中心とした治療目標へ切り替えることが患者利益につながります。
「80代なので治療しない」と本人や家族が話す場合、その言葉の背景を丁寧に確認することが必要です。治療の副作用が怖い、手術しか選択肢がないと思っている、通院が難しい、認知症の配偶者を介護している、子どもに負担をかけたくない、あるいは癌の進行度を十分に理解していないなど、異なる事情が含まれることがあります。選択の前提となる不安や誤解を言語化することで、患者に合った選択肢を再提示できます。
説明では、まず「現在の癌はどこにあり、どの程度の危険度か」を平易に共有します。次に、治療を行う場合、監視療法を行う場合、待機療法を行う場合のそれぞれについて、期待できる利益、不利益、必要な検査、通院頻度、方針変更の条件を比較します。このとき、相対的な危険度だけではなく、「何年程度の期間で利益・不利益が現れやすいか」「治療により日常生活の何が変わる可能性があるか」という絶対的かつ時間軸を含めた説明が有用です。
患者本人に対しては、「長く生きること」「自宅で自立して過ごすこと」「排尿症状を避けること」「治療のための通院を減らすこと」「家族との時間を優先すること」のうち、何を最も大切にしたいかを確認します。意思決定能力に懸念がある場合は、患者本人の意思を最大限尊重しながら、家族や意思決定支援者と情報を共有し、必要に応じて老年医学、緩和ケア、訪問診療、地域連携部門とも協働します。
結論として、80代の前立腺癌において治療しない方針は、低リスク癌、限られた期待余命、重い併存疾患、フレイル、または患者の明確な希望がある場合に合理的となり得ます。しかし、その判断は年齢だけで完結しません。癌のリスク、全身状態、生活機能、本人の価値観を定期的に見直し、必要であれば監視療法から根治治療へ、あるいは待機療法から症状緩和を目的とする治療へ移行できるよう、継続した診療計画を共有することが重要です。